繁田信一 著『日本の呪術』(MdN新書)を読んでいたら、長らくモヤモヤしていた疑問が氷解しました。
同じ疑問をお持ちのかたのために(まさか私だけじゃないですよね)、著者の見解をご紹介したいと思います。
平安時代の呪術者たち
まずは本のご紹介から。
タイトルは『日本の呪術』ですが、出てくるエピソードは、ほぼ平安時代のものに限られます。
その反面、平安時代の呪術者たちに関しては、新書としては思いのほか目配りが行き届いていて、とてもコスパのいい本になっています。
ただし、念のため申し添えておきますが、著者は歴史学者であり、呪術の実践法を伝授する本ではありませんので、もしご購入をお考えの場合は、誤解のないようにお願いいたします。
平安時代に陰陽師という呪術者がいたことは、安倍晴明を主人公にした映画やアニメによって、すでに多くのかたがご存じでしょう。
また、陰陽師には、安倍晴明のような、政府のお役人である官人陰陽師と、法師(僧侶)の格好をしているため法師陰陽師と呼ばれる、民間の陰陽師がいたことぐらいまでなら、ご存じのかたもいらっしゃると思います。
しかし、民間の法師陰陽師が当時としてはけっこうな高収入(具体的な数字の比較あり)を得ていたため、下級貴族の子息が就職先に選ぶような職業だった──というようなことまで書かれた一般向けの本は、なかなか見当たらないのではないでしょうか。
もちろん、日本呪術史における、もう片方の主役である密教僧や、さらには、陰陽師や密教僧が出現する以前から存在する巫についても、かなりのスペースが割かれています。
ほかにも、分量はガクンと落ちますが、仙人、算置、人狗、相人についても触れられています。
それらのうち、ここでは、官人陰陽師と法師陰陽師と巫について、ご説明します。
官人陰陽師
官人陰陽師から始めましょう。
《陰陽師》という言葉は、そもそも陰陽寮という役所の官職名でした。
設立当初(7世紀後半)のお役目は、国家のための卜占で、定員は6名です。
日、月、星の動きで察知される陰陽の気の変化が、国家の未来を暗示すると信じられていた時代、《陰陽師》は天下国家の大事に関わる陰陽の気の動きを察知して天皇に奏上する、という重要な役割を担っていました。
それが、平安時代になり、貴族の間でケガレの観念が広がるにつれ、禊祓(罪やケガレを取り除く行事)のような呪術が、少しずつお役目に追加されてゆきます。
それに伴い、人員も増えたようで、著者の推定によれば、平安時代中期には30人以上いたのではないかということです。
とはいえ、平安貴族の、病的とも言えるようなケガレ観念の広がりは、その比ではありませんでした。
3月上旬の巳の日に、人形にケガレを移して川に流す《上巳の祓(雛祭りの原型)》を始め、定番行事になった禊祓が、年に何日もあったようです。
また、(従兄弟ぐらいまでの)近親者が亡くなると、喪に服し、喪が明けた際にも、禊祓が必須でした。
自分や自分の家族が病気になったときにも、しばしば禊祓を必要としましたし、さらには、呪詛(のろい)から自分の身を守るための《呪詛の祓》も、平安貴族の日々の暮らしには欠かせないものでした。
30人程度の官人陰陽師では、天皇をはじめとする皇族や、藤原道長のような上級貴族の需要を満たすだけで手一杯だったはずです。
そして、平安時代中期の都には、2万人もの貴族が住んでいました。
法師陰陽師 蘆屋道満
ここで登場するのが、法師陰陽師と呼ばれる民間の陰陽師です。
中級以下の貴族は、法師陰陽師に依頼するしかなかったのです。
実際、紫式部の私家集『紫式部集』には、当時すでに年中行事として定着していた《上巳の祓》のために、自分が賀茂川の河原に呼んだ法師陰陽師を、下品だとディスる歌を載せています。
また清少納言のほうも、『枕草子』の「心ゆくもの(すっきりと気分のいいもの)」の中で、美しい女性の絵や、夜中に目が醒めて飲む水と並べて、「ものよく言ふ陰陽師して、河原に出でて、呪詛の祓したる(言葉の巧みな陰陽師を連れて、賀茂川の河原に出て、呪詛から身を守るための禊祓をしたとき)」と書いていて、こちらの陰陽師も法師陰陽師を指すようです。
平安時代中期、都の法師陰陽師の数は、少なくとも数百人にのぼると考えられます。
官人陰陽師の代名詞が安倍晴明なら、法師陰陽師の代名詞は、フィクションの世界で安倍晴明のライバル(というよりは、安倍晴明に成敗される悪役)となる蘆屋道満でしょうか。
二人の関係は、鎌倉時代前期に成立した説話集である『故事談』や『宇治拾遺物語』に出てくる〈御堂関白の犬〉の話が始まりのようです。
ただし、ここでは、蘆屋道満は、道摩法師の名前で登場します。(別人説もあり)
藤原道長が飼い犬に外出を引きとめられたため、安倍晴明に占わせたら、危うく何者かに呪いをかけられるところだったと分かり、そんな呪術の遣い手は道摩法師しかいないという安倍晴明の注進で、道摩法師を囚え、生国の播磨に追放する、という話です。
ちなみに、南北朝時代に成立したとされる、播磨の地誌『峰相記』に、同じ話が載っていて(ただし、犬は出てこない)、こちらの法師陰陽師の名前は、道満です。
なお、『峰相記』での結末部分は、「(道満は)播磨国に流されて、佐用郡に住み、二度と京に上ることなく亡くなった」となっています。
さらに、道満の死後にも触れ、「播磨国の英賀とか三宅の辺りに、陰陽師を継いだ者が見られますが、彼らは道満の子孫です」と付け加えられています。
蘆屋道満という名前の法師陰陽師が実在したことは、どうやら間違いないようです。
今回ご紹介する本で、私がいちばん気になったエピソードは、やはり藤原道長を呪詛した事件で、呪符を作製したカドで捕まった法師陰陽師の供述調書「僧円能等を勘問せる日記」の内容です。
こちらは平安時代の法務、法制に関する書物『政事要略』に収められている文書なので、実話です。
陰謀に荷担したのは円能という法師陰陽師なんですが、検非違使(警察官)が円能に、「この呪詛のことを知る陰陽師は何人いるのか」と尋問したのに対して、明確な答はなく、代わりに、「もともとは道満法師こそが以前から、あの家(円能に呪符の作製を依頼した人物の家)に出入りする陰陽師」であり、「道満は呪符の件も知っていたかもしれません」と供述しています。
現実の世界では、この記録以外に道満の名前は出てこないそうですから、結局、この呪詛事件とは無関係だったのかもしれませんが、色々と想像をたくましくさせられるエピソードです。
法師陰陽師の正体は、男巫?
すでに長くなりましたので、巫については、手短に説明します。
現在の青森のイタコや沖縄のノロを思い浮かべれば、それほど間違ったイメージではないはずです。
ただし、奈良時代までは、男性の巫も普通に存在していたということです。
それが平安時代になると、消えてしまったんだそうです。
完全に消えたわけではありませんが、男性の場合は、わざわざ男巫と呼ばれていたのだとか。
それとは逆に、女性の法師陰陽師は存在していないようです。
ということは、もうお分かりですよね。
奈良時代まで巫を名乗っていた男性呪術者が、平安時代の貴族による、爆発的な需要にともなって、法師陰陽師を名乗るようになったのではないか、というのが著者の見解です。
陰陽師も密教僧も、体制側が公私ともに利用してきた一方で、巫は、有史以来、一貫して弾圧の対象でした。
需要に比べて圧倒的に呪術者の数が足りない時代、名前も格好も変えてくれたほうが、取り締まる側にとっても、都合がよかったのかもしれません。
なお、奈良時代から平安時代になるのを境に、ほかにも消えた呪術者がいました。
陰陽師と同様、律令政府の役人だった呪禁師です。
残念ながら、この本ではまったく触れられてませんが、小松和彦著『呪いと日本人』では、吉備真備が弾圧したとなっています。
さらに、《呪いから身を守ってくれる役目を負っている呪禁師たちが、こともあろうに政府の要人を呪詛する側に加担していることがわかり、関係した呪禁師を処罰しただけでなく、呪禁部門そのものを廃止してしまったのではないか》と書かれてますが、それ以上の記述はありません。
吉備真備といえば、のちに陰陽師の祖と祭り上げられる人物だけに、非常に気になるところです。